《 あっ、見つかってしまいましたか 》

ようこそ!オマケページです(^^ゞ
ここでは、過去に掲示板「Chris In The MorninG」に記載した「Today's proverb」をご紹介していきます。
管理人Hamが読んだ本(ジャンルバラバラ)の中から、アンテナにピピピとひっかかった部分を適当に抜粋しているのですが、そのうちネタ切れしそうです(汗)本に限らず、映画やドラマの中で「こいつぁーイイ!」って台詞とかがあったら、教えてもらいたいです(^^ゞ

■ウィリアム・ブレイク■(1757〜1827)イギリスの詩人・画家。

ウィリアム・ブレイク詩集「地獄の格言」(平凡社ライブラリー/土居光知訳)より
自己の翼を以て飛ぶ鳥は高く翔りすぎるということはない

信ずることができるあらゆる物は真理の面影である

今証明されることはかつてはただ想像された事であった

祈りて耕すことを思わず、讃嘆して収穫を忘れる

愚者がその愚を固執すれば賢くなるであろう

汝が彼を利用するのを、黙っている彼は、汝を知りきっているのだ

喜びは孕み、悲しみは産む

悲しみ極まりては笑う。喜び極まりては泣く
獅子が狐の忠言を聞くようになれば、彼は狡猾であるというに過ぎなくなる。

■ヘルマン・ヘッセ■(1877〜1962)ドイツの抒情詩人・小説家。

「荒野のおおかみ」(新潮文庫/高橋健二訳)より
ああ、私はすべてを理解した。パブロを理解し、モーツァルトを理解した。自分のうしろのどこかに彼の恐ろしい笑いが聞えた。自分のポケットの中の生命の遊戯の幾十万の姿をことごとく知り、その意味を察知して心を打たれ、その遊戯をもう一度始め、その苦悩をもう一度味わい、その無意味さにもう一度おののき、自分の内部の地獄をもう一度、いやいくどでも遍歴しようと思った。


「デミアン」(岩波書店/実吉捷郎訳)より
悦楽と恐怖、男と女が入りまじっていて、きわめて神聖なものと、きわめておそるべきものが、からみ合っていて、きわめてものやわらかな無垢のあいだを、深い罪過が走りぬけてゆく─といったようなのが、ぼくの愛情のまぼろしだったし、アプラクサスもまたそのとおりなのであった。愛はもはや、ぼくがはじめのうち、おびえながら感じたような、動物的にくらい衝動ではなかったし、また、ぼくがベアトリイチェの肖像にささげたような、つつましく霊化された崇拝でもなかった。それは両方であった。両方で、しかもそれ以上のものだった。それは天使のすがたとあくまが、男と女が、ひとつになったもの、人間とけだものであり、最高の善と極端な悪であった。これを生きることが、ぼくに定められた道であり、これを味わうのが、ぼくの運命なのだ。ぼくはそれにあこがれながら、同時にそれがこわかった。しかしそれはたえずそこにあった。たえずぼくの頭上にあった。


■塩野七生■(1937〜)イタリアを中心に地中海世界の歴史を独自の視点で描出する作家。

「マキアヴェッリ語録」(新潮文庫)より
名声に輝く指導者たちの行為を詳細に検討すれば、彼らがみな、運命からは、機会しか受けなかったことに気づくであろう。そして、そのチャンスも、彼らには材料を与えただけであって、その材料さえも、彼らは自分の考えどおりに料理したのにも気づくにちがいない。
つまり、機会に恵まれなければ、彼らの力量もあれほど充分に発揮されなかったであろうし、また力量をもちあわせていなければ、機会も好機にはならなかったのである。 -『君主論』-

わたしは、はっきりと言いたい。運は、制度を変える勇気を持たない者には、その裁定を変えようとはしないし、天も、自ら破滅したいと思う者は、助けようとはしないし、助けられるものでもないのである、と。

「サロメの乳母の話」(新潮文庫)より
「善意に満ちていて、しかも行いの清らかな人が、過激な世改めを考え説くほど危険なことはないと思うけれど、乳母はどう思う?」


■カール・グスタフ・ユング■(1875〜1961)スイスの心理学者。

「ヨブへの答え」(みすず書房/林 道義訳)より
われわれは神の中に分裂と苦悩があることを承知してはいるが、しかしそれがあまりにも無軌道で、それゆえ道徳的に無力であるとなると、理解ある共感を呼ぶどころか、時間をかけなければ治らない傷のように後をひく無軌道な激情をかきたてられてしまう。怪我の種類が傷つける武器によって決まるように、激情のあり方もそれを引き起こした暴行によって決まるのである。



■コリン・ウィルソン■(1931〜)イギリスの作家・評論家。

「アウトサイダー」(集英社文庫/中村保男訳)より
「文明」の直面する問題は、先週の日曜の新聞に書かれた見出し同様に客観的に消化吸収することのできる宗教的態度を採用しうるか否かということである。が、個人の問題は、いつの世にも、その正反対であるに違いない。自己保全の本能が内面拡大の苦しみに反抗し、精神的な怠惰へはしりがちな衝動が、ことあるごとに波のような眠りに高まってくるのをものともせずに、自分の眼で見、自分の手で触れる体験の量を限定しまいと意識的に努め、存在の敏感な部分を、それに傷を与えるかもしれない対象にさらけだし、あくまでも全体としてものを見るべく苦闘すること、それが個人に課せられた問題である。


「アウトサイダーを超えて」(竹内書店新社/中村保男訳)より
科学とは、「事実」に関して全く客観的になろうとする試みである。が、科学者の道具が不正確であれば、客観性は不可能であるので、科学者は自分の道具を調べることから始めねばならない。哲学者の基礎的な道具は論理ではなく、観察すなわち意識なのである。したがって、哲学の出発点は─ブレンターノによれば─意識という道具の検査でなければならぬ。


■タキ・テオドラコプロス■(1937〜)ギリシア生まれのコラムニスト。

「ハイ・ライフ」(河出文庫/井上一馬訳)より

スタイルとは見せかけの反対である。強い信念のことである。ひっきりなしに葉巻を喫い、痛飲を重ね、意地の悪いことで有名だったウィンストン・チャーチルは、本来的には、下品な男だった。にもかかわらず、その実行力と強い信念が彼を確固としたスタイルの持主にしていた。



■フョードル・ドストエフスキー■(1821〜1881)ロシアの文豪。

「カラマーゾフの兄弟」(新潮社/原 卓也訳)より
わたしはお前のことをこんなふうに考えているのだよ。お前はこの壁の中から出ていっても、俗世間でも修道僧としてありつづけることだろう。大勢の敵を持つことになろうが、ほかならぬ敵たちでさえ、お前を愛するようになるだろうよ。人生はお前に数多くの不幸をもたらすけれど、お前はその不幸によって幸福になり、人生を祝福し、ほかの人々にも祝福させるようになるのだ。これが何より大切なことだ、お前はそういう人間なのだ。


■アブラハム・H・マスロー■(1908〜1970)アメリカの心理学者。

「完全なる人間 魂のめざすもの」(誠信書房/上田吉一訳)より
自己を失う事は、どうしてできるのだろうか。気づかれもせず、考えも及ばない変節は、人知れず精神的死をもってはじまる―愛されもせず、われわれの自然の願望が妨げられたとしたら、そのときに。(考えてもみよ。なにが残されているのか。)だが待て―これは精神の単なる殺害ではない。それは帳消しになるかもしれない。ちっちゃな犠牲者はこれを「乗り越えて進み」さえする―だが、かれみずからもまた、次第次第にはからずして、加担するというまったく二重の罪を重ねることになる。かれは、ありのままの人となりとしては、人びとが受け入れてくれない。ええ、人はかれを「愛して」いる。ただかれに違ったものになることを求め、強要し、期待しているだけなのだ!
人間は往々にして概括されることに憤りを感じるが、これはかれらの個性(自己、同一性)を否定するものと見るからである。かれらに予測される反応は、自己に可能なさまざまなかたちで同一性を再確認することである。心理療法におけるこのような反応は、個人の尊厳の肯定として共感的に理解されねばならない。ある種の治療においては、この個人の尊厳がどのみち著しく侵害されているからである。このような自己防衛反応を、(病気防衛策の意味での)「抵抗」と呼ぶべきではないか。それともまた「抵抗という概念を拡げて、気づきに達するうえでの種々の困難をも含むようにすべきかという問題が残されている。さらにまた、このような抵抗は、誤った心理療法に対する極めて価値のある防衛手段であることが指摘されるのである。


■フリードリヒ・ウィルヘルム・ニーチェ■(1844-1900)ドイツの哲学者。

「この人を見よ」(新潮社/西尾幹ニ訳)より
悪魔というものは七日目ごとの神の息抜きであるにすぎまい


■手塚治虫■(1928-1989)
戦後日本のストーリー漫画を確立した偉大な漫画家・アニメーション作家。漫画家になってくれて本当にありがとう!!

「ジェットキング」(秋田文庫)より
「悪者をやっつけてもよくならないし……良心のクスリを飲ませてもよくならないんじゃしようがないや」
「ほんとうの良心は自然に心の中に生まれてくるのですよ」


■ニール・ドナルド・ウォルシュ■

「神との対話」(サンマーク文庫/吉田利子訳)より
自分の感情に耳をすますことだ。自分の最高の考えに耳を傾けなさい。自分の経験に耳を傾けなさい。そのどれかが、教師に教えられたことや本で読んだことと違っていたら、言葉のほうを忘れなさい。言葉は伝達手段として、いちばんあてにならない。


■M・スコット・ペック■アメリカの精神科医。

「愛と心理療法」(創元社/氏原寛・矢野隆子訳)より
精神的に発達した人々は、その自制心、練達、愛情によって、卓越した能力をもつ。その能力により、彼らはこの世のために働く使命を受けている。そして、愛によってこの使命に応える。したがって、彼らが大きな力をもつことは避けられない。もっとも、世間は彼らを平凡な人々とみなしていることが多い。彼がが普通、何も言わずに、あるいはわからないような方法で、自分の力を行使するからである。にもかかわらず、彼らが力を行使しているのは確かであり、その際彼らは、大変、時には恐ろしいほど苦しんでいる。というのは、力を行使するとは決断を下すことであり、研ぎ澄まされた意識で決断する過程は、限られた、あるいは鈍い意識で決断するのに比べて(大抵の決断はそうであり、最後には間違っていることがわかるのだが)、しばしば途方もない苦痛だからである。


■ラインホルト・ニーバー■アメリカの神学者。

神よ、
変えられぬものを受け入れる謙虚さを、
変えられるものを変える勇気を、
そして、
それを見分ける叡智を
与えたまえ


■バグワン・シュリ・ラジニーシ(OSHO■

あなたは友達とすべてをわかち合うべきだ。特にそれらの美しい瞬間──愛の瞬間、詩の瞬間、音楽の瞬間……を、わかち合うべきだ。そのようにして、あなたの人生はますます豊かになるだろう。あなた方は互いにとても調和するようになり、一生をともにするかもしれない。


■吉田松陰■

末の世において、道義を実践したならば、必ず、その時の人々から、極端と言われる。
逆に言えば、世人から極端と言われないなら、それは、決して道義ではなく、迎合に過ぎない。